昭和46年2月18日 朝の御理解

 御理解第98節

 「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時は、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」



 神様に向かわせて頂く心というものが、清らかで、そして豊かでなからなければならん。豊かであっても心が濁っていたら、平気な心というものは生まれてこないだろうと思う。または、清らかであっても豊かでない、心が小さかったら、平気な心にはなれないと思う。お伺いする時は、とりわけ平気な心でなければならない。落ち着いて、静かに願える心の状態というものを日頃、鍛練しておかなきゃならんということが分かりますね。これも、信心を段々、進めていく人の上に必ずいっぺんは、こう、そういう壁にぶつかるところじゃないでしょうか。そして、そこで分からせられることは、結局、自分が心が豊かでないということ、自分が清まることに精進していないということ、などに思いが至ってくるだろうと思う。今日、私は、そこのところを、まあ、だから神様にお伺いでもすると言うのですから、信心が段々進んでまいりまして、ことでありますから、信心が進んでいなくても、一つの信心を進めていく手がかりとしてですね、ここを頂くために「心は神信心の定規じゃ」というふうに言っておられるところ、「心がおかげの定規」いうなら「おかげの受けも」いうなら手というふうに頂いてみたらどうだろうかと思うね。成程、自分がおかげを受けられるはずだ。成程、大きな願いをするからには、成程、自分が大きゅうならなければならんな、ということが分かる。なら、こう言うわれる。小さな心で、大きな、願いだけは大きなおかげを頂きたいという。それで、おかげが頂けるはずないじゃないか。心が小さい者がね。いうならば、一合しか入らないビンを持って行って、「一升の酒をくれ」と言ったようなものだ。神様は下さっても、後の九合はこぼれ落ちてしまうね。大きなおかげを頂かせて頂く。だから、自分の心を見れば分かる。成程、自分は大きなおかげは受けられんはずだなぁ。こんなに心が小さいんだもの、ということが分かる。だから、心を大きゅうしていく稽古をしっかりしなきゃならない。どういうふうに、なら、まぁ、お酒を買いに行くにいたしましても、大きな樽があっても、汚れておったんでは、せっかくのお酒が濁ってしまう。また、濁っておれば、汚れておれば、洗ってこなけらば、お酒もつめてもらえるだろう、ということになるわけです。自分がどんなに汚れはてておる、汚れきっておる、ということを、まず、自分が自覚しなければならない。だから、心は神信心の、いわゆる「心はおかげはの受けものじゃによって」と。そこのところを自分で計ってみる、定規ね。「これは、もうちょっと大きゅうならなっきゃならんなぁ。これは、本気で清まらなければならないなぁ。」と本気でいよいよ魂の清まりを願わしてもらい、いよいよ大きくならせて頂く稽古をさせて頂くわけでありますね。

 昨日、ある方とお話させて頂きましたんですけれども、生まれつき心が豊かというか、心が大きい方。心が、また非常に欲が少なくて、生まれながらにして、そういうものを頂いておられる話をさしてもらって、私はその方に申しました。私くしどもは、私くしなどはあなたとは反対。生まれつき心が小さい。生まれつき欲が大きい。我情我欲が大きい。それを段々おかげを頂いて、小さい心が、いわば信心の、いわゆる修錬、いわゆる稽古によって、心が段々大きゅうならせて頂いた。汚い心であった、いわば我情我欲に満ちておった心が段々、その我情我欲が取れてきた。やはり稽古ですよ。というてお話ししたことです。私、丁度、いさむ先生から足をもんで頂いておりましたから、そこに訪ねてみえました。そんで、私の部屋に初めて入られたらしくて、まぁこちらの先生場合は、必要なものが必要におおじて、こういう大きなおかげを受けておられる。と言うわけなんです。ですから、初めから、こういうおかげを私が受けられる、受けものを持っておったのではなくて、それは小さな心であった。または、汚い心であった。それが信心のいわゆる稽古、修錬によって大きゅうなることができよる。ところが、あなた方は、もうもって生まれて、心が美しい、いわゆる欲が少ない、同時に人間が大きゅうできとんなさる。だから、それが信心によって磨きがかけられた時に、いよいよ大きなおかげが受けられるだろうというようなことをお話したんですけれども。帰えられた後に私、気付かせて頂いたんですけれども、成程、まぁ自分が、ある意味「自己主義だ」というような意味のことを言うとられましたけれども、本当にあれは生まれつき、ただ、心が大きいとか、美しい人とか、というのは、実はそうではないのだと。やはり信心によって、それが磨かれたり、大きゅうなっていくのでなからなければ、おかげの大層にはならないのだと。おかげのいわば、受けものにはなっていかないのだ、というようなことをその方の話を聞きよってから、まぁ私、気付かせて頂いたんですけれど。非常にいうならば、なんと言うのですか、人間の好き嫌いというか、というものが大きい。成程、大きい証拠には、まぁ人が付き合わんような、人でも平気で使うておられる。もう、あげんか人と付き合わんがよかですよ、と人が注意してくだる人でも、平気で使うておられる。心が大きいんだなぁ、とこう思うんです。ところが、片一方の話を聞きよると、あれの人の言うことは聞かれない、とか、あれはケチン坊だとか、自分の心の中に全然、受け入れられておられないということは、「これは本当に大きいのではないなぁ」と。本当に大きいというのならばね、いうなら、昔から清濁を切ったような、清らかなものであろうが、濁ったものであろうが、それが、一つ自分の心の中に受け治めれる心こそが、大きいのであって、自分でも、直進的なとことを言っておられたが、自分の都合の良い者だけは、それが相手が前科者であろうが、受けておられるというようなことなんです。人は、前科者をやとうておられるから、はぁ、あげんかとをあんたんところにおいちゃいかん、と言うけれども、「うんや」とこう言いわれるから、えらい大きな人のように見える訳です。ね、人間が。ところがその方が言うと「自分は大体エゴイストだ」というようなことを言っておられるんです。自分でも気付いておられる。成程、あそこから気付かせて、成程この人はエゴイストだなぁ、とこう思うた。成程、自己主義の人だなぁ、とこう思うた。そこには人が、ああいう人と付き合う、人が付き合いきらんごたる人でも、平気で付き合いきりよんなさるけん、大きかと思うたら、その反面には「ごげなっとは、全然自分の心に受け入れられない」というようなことを言いよんなさったが、「これは、大きいのじゃないなぁ」と私は思うた。大きいというのはね、それこそ、人が付き合えない人でも、付き合えるということだけなんですけれども、そこにはね、選り好みがあるはずがない。大きいなら。はぁ、(  ?      )大体、そういうような大きい、いうならば、生まれつき持っておられるから、ここんところに気付かれて、自分が「あげんかとあは、フルフルすかん」といったようなのでも、受け入れられる稽古をなさった時に「この方は大きなおかげを受けられる人だなぁ」と私は思うた。

 ですから、皆さんどうでしょうかね。誰でも一つ信心させて頂いて、大きなおかげを頂かなきゃならん。そこにはね、どうしても大きな心になればならないね。くうような、すうようなおかげを頂くためには、それこそ大海のような心を頂かなければならないね。あれは嫌、これは好きと好き嫌いを言っておるようことでは、大きなおかげは受けられない。ということを、まず、分からせて頂いて、それからが修錬だと思うのです。稽古だと思うのです。私が先程、申しますように、人間が小さい、神経が細かいね、しかも我情我欲で満ちとる。そこで、様々な機会に、いわゆるそれを一つのチャンスとしてです、「はぁ、こげなことじゃ、自分がおかげを受けられるずがない。」と大きゅうなることに一生懸命、精進させてもろうた。「はぁ、こげな汚い心じゃ、おかげが頂けん」と気付かせて頂いて、自分の我情我欲を取らせて頂いて、「本気で素直になるぞ」とね。いわゆる、任せる心。任せる心というのは、やはり豊かな、大きな心だと思うですね。任せられると言うのですから。だから、この神様任せというようなことを、よく申しますが、それは、「もう、しょうがないから」任せのであってはならんのです。そこに「信の心。信ずる心」が生じてくるから、バカ素直にならなきゃなりません。「天に任せよ。地にすがれよ」ね。御神訓の中にございますように、「天に任せる」ということは、これは、すがることではなくて、いわゆる大きな心になること。任せる。そして、それは任せるだけではない。「地にすがれよ」とこういう。「地にすがれよ」ということはどういうことかというと、自分の心、ね、自分の心がこのように、汚かったり、小さかったりしたんでは、というのですから、ね、「地にすがる」という「どうぞ私の心の上に、大きな心にならせてください。清まらせてください。」とすがっていく。ところが、なかなか人間が小さいもんですから、自分の心にはばからないようなことが起きてくる。例えば、一つの腹立ちなら、腹立ちといったようなことでも、これに激情というかね、そういう心がいっぱいになってくる。爆発しそうになる。そこを、いわゆる「天に任せて、地にすがる」、一生懸命に神様にすがる。いわゆる「金光さま、金光さま」にすがる。ある時に頂いた御理解に、私がそのような時に、確かに頂いた御理解だった思うんですけど、もう、それこそ煮え湯を飲まされるようなことがある。それこそ苦いものを飲まさられることがある。ね、そういう時にです、「はぁ、今こそね、心の胃腸が強うなっていきよる時だ。今、にがい、せんぶりを飲ませて頂いておる時だ。」というような頂き方をする。「にがい、けれども今、この心の胃腸の丈夫のおかげをくださっておる時だ」というようなことになってまいりますと、そういう、にがいことにもお礼が言えれるような豊かな心が生まれてくる。というようにですね、私共がね、自分の心の清まりとか、または、心が大きゅうなっていく稽古を本気でさせてもらう時にです、「もう、自分の心にはばからない」といったような時にでも「金光大神」を唱えさせてもらい、御取次を頂いて、そして、自分の心に取り組んでいくね。いや、むしろ今こそ、自分の心のいよいよ大きゅうなることのために、「神様がこういう働きをしてくださってあるんだ。にがい、せんぶりを飲ませて頂いとる時だ」と分からせて頂く時に、そのことに対してお礼が言えるようになる。繰り返していきよるうちに、自分の心が強うなっていく、心の胃腸がせんぶりを飲むことによって、胃腸が強くなるように、心の胃腸が強うなっていく。どういうものでの受けて、平気で受けていけれるようになる。段々、そういう稽古をさせて頂きよったら、おかげの方も段々大きゅうなってきたとこうになるのです。「自分が、たったこのくらいのことで、もう、怒りよる。もう限度。」といったような考え方は、するような時もありますよ。そういう時こそです、良いチャンスを頂いておる時ですから、いよいよ、いわゆる信心辛抱ですね。「いよいよ、今こそ清まらせて頂くと、チャンスを与えておられるんだ。今こそ、自分の心を大きゅうしていく機会を与えて頂いておるんだ。」と。 やっぱり信心は一つの悟りであります。そう、悟らなければいけない。そう悟れた時に「そのことも、また、有り難い」と分からせてもらう。「生まれつき、あの人は大きい。」なにか一つのぼんやり、しとるような感じの人もありますよね。平気な人がら。けども、もし、(  ?  )お話させて頂きましたように、「本当にあなたは生まれつき、大きい。小さいことなんか気に引っかからん。そして、なかなか心が美しゅうあんなさる。(?   )あなたのような人が信心によって、おかげを頂いたら鬼に金棒だ」というてお話をした、けれども、本人は言うておられる。「いんや、私はエゴイストだ」とこういうふうに言われる。私は、そん時には気付かなかったけれども、帰られた後に「うん、あれはほんなこつじゃないなぁ。本当に大きいのじゃないなぁ」と思うた。自分の気に入った者なら金銭欲もなからなければ、物欲もないかもしれない。自分の気に入って者なら、人が「あげなととは付き合うな」と言うても、平気で付き合うような大きさをもっておられるかのように見えたけれども、片一方の方には「もう、あげな奴とは付き合わん。あげな奴にはやりたくない。あげな奴とは付き合えん」といったようなものがあるところを見ると、「これは本当に大きいのではないなぁ。大海のような心じゃないなぁ、これで、クジラが住むようなおかげを狙っても、クジラが住むようなおかげにはならんのだなぁ」と気付かせて頂いた。「だから、今度お参りになった時には、ここんところをひとつ教えてあげなければいけないなぁ」と思ったんです。それを思わせて頂いておたったら、今日の98節を頂きましたから、「心は神信心の定規」というて教えておられる所をです、今日は「心はおかげの受けものじゃによって」というふうにここんところを聞いて頂いた訳です。

 自分が、もう、はぁ、たったこれくらいのことが心配になる。これくらいのことが辛抱できない。そこで、分からせてもらう。「成程、自分な、おかげを受けられんぞ」と悟らならないかん。そして、神様、「天に任せて、地にすがる」ということは、任せるということは、ただ任せただけではいかん。それにはすがるものがなけりゃならん。すがるなら、どこにどうすがっていくかというと、自分の心の清まりをすがっていかなきゃならん。自分の心がより大きくなって、豊かになっていくことを、より美しゅう、麗しくなっていくことを願わないかん、すがらなならん、ということになるのです。そういう時、初めて頂いたおかげも清らかであるし、また、頂くおかげもより大きなおかげを受けられるということになる。だから、もう、信心は限りがない。「より大きなおかげを頂こう」というのであれば、より大きな心ならな。そういうことになるのじゃないでしょうか。ですから、段々、心が豊かになり、大きゅうなり、美しゅうなってまいりますから、いつでも、いわば平気で願えるというかね、心にゆとりがある。平生信をもって願えれる。いわゆる落ち着いて、静かに願える。落ち着いて、なおかつ静かに願えれる信心。確信に満ちた願い。おかげになると確信できれる心が、そこから段々、本当のものになってくるというふうに思うのです。

 世の中には、本当に豊かな心の人があります。大きな心の人があります。けれども、信心を抜きにして豊かなような人、大きいと言うとりるけれどです、しかし、よくよく見ると、それは、むしろやはり、その方が私、昨日おうた、お話させてもらい、言うわれるように「成程、自己主義なんだ」ね。それでいて、自分が心が大きいと思うておるような場合があるんじゃないだろうかと思う。本当に大きいのならばですね、いうなら、赤も白ね、みんな自分の心の中に治められる心であって大きな心ということが言える。赤の人だけなら、赤が好きな人は、赤ならどげん、こげん冷蔵庫に治めていける、白が嫌うのだったら、それは、もう、大きいのではないと、と悟れた時に、これは、赤でも白でも、全てを自分の心の中に治めさせて頂けるる、おかげを受けることに精進する。まだ、私はそれを、自分で実感して、そのようにお話したんですけれども、私は、あんまりにも心が小さい、しかも汚い。しかも私は我情我欲がいっぱい。その我情我欲がいっぱいであった私が、我情我欲を取らせて頂くことのために、いよいよ本気で修行させて頂いたら、「成程、我身は神徳の中に生かされてある」という喜びが分かってきた。自分が「けし粒のような心だな」と分からせて頂いたから、本気で自らの心が大きゅう、豊かになっていくことのに焦点を置かせて頂いたら、「成程、おかげが段々、大きなったきた。」と。だから、決して自分の心が小さいのは生まれつきだ、というて悲観することない。信心とは、そういうことを教えて頂くのだ。汚いからというて、自分はもうひかり色がない。それを、清めていく、美しゅうしていく道を神様がはっきり教えてくださるのだ。ということが言える訳なんですね。皆さん、ひとつ大きなおかげを、ひとつ願わなくてはなりません。しかも清らかなおかげを。にはまず、魂の清まりを願うこと。まず、心の受けものを、その様々なチャンスをつかんでは、大きゅうならせて頂く、機会を神様が与えてくださるのですから、それをいよいよ大きゅうならせて頂ける稽古ね、修錬を積んでいかなければならん。と私のような者が、ああいう小さい自分が、ああいう汚い私が、段々このようなおかげを受けていっておるということが、また、こよなく有り難うなっていくる。そこには、また、有り難いおかげが限りなく頂けてくるようになる。いわゆるおかげの確信というかね、「こういう心で願っているのだから、神様は必ず聞いてくださるんだ」という確信に満ちた、いわゆる神様への打ち向かい方。また、確信に満ちた安心の生活が、そこに約束されるわけですね。どうぞ。